週報 巻頭言

「平和を」

松坂克世

わたしの正しさを認める方は近くいます。/誰がわたしと共に争ってくれるのか/われわれは共に立とう。/誰がわたしを訴えるのか/わたしに向かって来るがよい。

(イザヤ書50章8節)

 

 このアドヴェントから新年を迎えるということは何度も語っていますが、新年早々から様々なことを考えさせられています。詳しくは申し上げられませんが、新しく生まれる命や召される命たち。また継承してゆくこと、その只中にわたしもいるということ。共感することの難しさとそれなしには表現することはできない豊かさがあること。わけがわからないけれども、その人間の現実にインマヌエルが神によって宣言されていること。感謝しつつ歩むこと。わたしの日常の中で主のみ言葉が立ち上がり、わたしの思いを砕き、正し、主の思いが成ること以外のものを退けるようにと導かれています。

 

 先週、12月8日を迎えました。昨年は家族みんなでこの日を迎えたことを懐かしく思い出しています。サプライズの誕生日会が行われると、驚きと同時にあらゆるものへの疑心暗鬼が始まりました。あれもこれもが自分を騙すためのものであったのかと、76年前の出来事に思い巡らせました。あのアジア・太平洋戦争開戦のことです。すでに末期となっていた状況はさらに過酷さを極め、血で血を洗うものとなっていたことは言うまでもありません。もう二度とあのような惨禍を繰り返さないためにと、現在の憲法を明文化し、生きる指針にしてきました。

 

 今日もイザヤの預言の言葉をご一緒に読みたいと思います。この第二イザヤには四つの「主の僕の歌」が編まれています。①主の僕の召命(42:1〜9)、②主の僕の使命(49:1〜9)、③主の僕の忍耐(50:4〜11)、④主の僕の苦難と死(52:13〜53:12)。いずれも来るべきメシアの姿を示しています。そしてこれらのいずれもが、捕囚の地で与えられた言葉でした。この状態がいつまで続くのか、出口から漏れる一筋の光さえ見えない状況で、イザヤが預かった言葉たちです。わたしたちもこの言葉に希望を見出して行きたいと思います。    

「待望」

松坂克世

イザヤは言った。/「ダビデの家よ聞け。/あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。/それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。/見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。

(イザヤ書7章13〜14節)

 

 アドヴェントを迎えました。教会暦ではこのアドヴェントから一年が始まります。なので教会は一足先に新年を迎えます。この一年も喜んで主に仕えて参りましょう。

 

 さて、救い主誕生の予言は全く予想もつかないところで語られ、数千年の時を経て実現します。誰もが耳を疑うような希望の言葉は、暗黒の時代にこっそりと語られたのです。時の王アハズも、アラムとエフライム(北イスラエル)が同盟を結び、攻め上ってくるという報せを耳にして震えあがりました。しかも、自分の側近である預言者イザヤが語った「それは実現せず、成就しない」という言葉をも信じなかったのです。巨大化した敵の姿に、自らをも見失っていました。疑心暗鬼となった彼の心はますます頑なになり、主の言葉を聞こうとも信じようともしないほど、固い殻に閉じこもってしまったかのようです。そこでイザヤが語ったのが上記の言葉でした。その内容は、巨大な敵に立ち向かうものとは思えないほど小さくて弱々しいものでした。一人の男の子がおとめから生まれる、それがインマヌエル、つまり神は我々と共におられるというしるしである、と。

 

 小さな命の誕生に、どれほどのリアリティ(現実味)があり、自らのこととして受け止めることができるのか。それを、事が成就する数千年前に、やがて来るべき救い主誕生の約束を言葉として語り、聞いた人びとがいたということを、わたしたちに知らせています。わたしたちは待つことができているでしょうか。絶望が支配しようとしている、この現代という時に、一人の男の子の誕生を心から待ち望む信仰を与えられたいと願います。やがて来るべき、その日に向かって。    

「わたしたちのために」

松坂克世

また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つ時まで、その家にとどまりなさい。

(マルコによる福音書6章10節)

 

 冬が始まりました。昨年は少し早めでしたが、例年はわたしの誕生日(12/8)頃に根雪となります。気温がもう少し低くなると「融けない」雪となります。なので、まだ少々の雪はどかさないようにしています(ただのものぐさという説もあります)。わたしが赴任して初めてのことになりますが、今年は教会の駐車場も融雪機を置かずに、除雪と排雪をお願いする予定です。やってみないと分かりませんが、費用面でも負担は小さくありません。そのことへのチャレンジでもあります。みんなで祈りつつ、やってみましょう。

 

 さて、今日から世界バプテスト祈祷週間が始まりました。今年度は総額で4,500万円の献金目標額が設定されています。これはすべて国外伝道のために用いられます。当然のことですが、わたしたち日本バプテスト連盟も米国バプテストのミッションボード(海外宣教局)から宣教師が送られ、伝道者養成と共に教会の歩み(伝道)が始まりました。今から約130年前のことです。自国のことのみに専念することなく、外へ目を向けるということは、自らを相対的客観的に捉えることができます。まして、現代社会では画面を通して世界中の人たちとつながり、意見を交わし合い、リアルタイムでその状況を感じることができます。今、わたしたちはどこにいて、どこに向かおうとし、誰と生きようとしているのかを知るために、わたしたちは献金をし、宣教師や国際ミッションボランティア(IMV)を送り、祈り支えるのです。ようは「自分たちのために」この世界バプテスト祈祷週間はあるのです。

 

 わたしたちが決断して送り出している宣教師たちであり、IMVです。祈りましょう。献げましょう。そしてこの働きを伝えましょう。誰のためでもなく、わたしたちのために。そして主のために。

「将来と希望を与える計画〜バプテストとして生きる」

松坂克世

わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主なる神は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。

(エレミヤ書29章11節)

  

 上記の主題、聖句で日本バプテスト連盟第63回定期総会が天城山荘にて行われました。

 

 今総会では二件の加盟申請(太田キリスト教会、那珂川キリスト教会)、通常の報告決算、計画予算に加えて、「連盟70年の歩みから性差別の歴史を悔い改める」声明などが理事会から提案されました。昨年、契約途中にも拘わらずある室長が辞任しました。この背景にはこの組織的構造的に性差別に加担・容認してきた事実があることを明らかにし、これまでの自らの信仰告白と相容れない福音理解と断絶し、新しい関係を主にあってもう一度結び直そうというものです。

 

 これは総会だけの出来事ではなく、わたしたちの教会にも反省を促し、あらためて立ち直す、そんな決断であると思います。誰と共に歩もうとするのか。この問いはわたしたちが信じる信仰を、そして教会のあり方をも揺さぶるものです。教会は常に主のみ言葉によって揺さぶられ、また主のみ言葉によって堅く立つことができるのです。この世で小さくされている人たちと主イエスは寄り添い歩まれました。徴税人、罪人とレッテルを貼られた人たち、病気を抱えた人たち、障害を乗り越えようとする人たち、子どもたち。ユダヤ社会ではまず疎外され、差別され、迫害されていた人たちの手を取り、あなたの信仰があなたを救ったと宣言し、まっすぐ生きるようにと祈られました。わたしたちもそんな主イエスの歩みを歩みたいと思います。

 

 すでに福音と共に歩むんでいるその人たちに聴いて行きましょう。わたしたちは何も持たない者として聴いて行きましょう。主は将来と希望を与える平和の計画をわたしたちに与えてくださいました。それに反する一切のものを拒否し、ただ御心が成るように、そしてそのために用いられるように祈ります。連盟はやっと結成して70年、わたしたちの教会は礼拝を始めてその半分(34年)です。まだまだこれからです。そしてこれからもごいっしょに。    

「愛のピンポン玉リレー」

松坂克世

モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった。

(申命記34章7節)

 

 先週、日月で道東牧師会を行いました。四つの教会に遣わされている牧師たちが集まって互いに近況を報告し、祈りを合わせました。豊かなひと時を導かれて、帰ってきた途端に菅野忠視さんの召天の報が入りました。その晩に各諸方面に連絡をし、ご家族や斎場と打ち合わせをしました。火曜日は以前から準備がなされていたBWA合同祈祷会が旭川教会で行われました。そして晩は前夜式、水曜日は朝から告別式が静かに、また豊かに行われました。そして晩は通常の祈祷会を行いました。牧師というもの、いつもその覚悟を持っていなければならないと神学校時代に学びましたが、今回も全てが導かれたことを感謝するとともに、やはりゆるくないお仕事だなあと思わされています。しかし全てがみ言葉によって励まされたこと、これ以上にうれしいことはありません。悲しみの中にあるご家族の上に主の平和と平安を祈ります。そして遺されたご家族と共にもうしばらくのそれぞれの時間、寄り添い合いながら一緒に歩むことができるようにと祈ります。

 

 先週決めておいた聖書の箇所がこの申命記の最後のところでした。モーセの死の場面です。上記にもあるように、モーセが死んだ時、目はかすまず、活力も失せてはいませんでした。しかし約束の地にとうとう足を踏み入れることはできなかったのです。それはモーセの務めではありませんでした。それはモーセの罪ゆえであると言われています(民数記20章)。人間的に見れば「そんなことで!?」と思うようなことですが、神さまはお赦しにならなかったのです。大切ないのちのバトンを受け継いでいく。そのためにヨシュアが用いられて行きます。わたしたちもそれぞれ大切な福音を受け取り、つないでゆく使命を与えられています。

「あきらめたらそこで試合終了」

松坂克世

だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。

(コリントの信徒会の手紙二 4章16節)

 

 一昨日から昨日まで、北海道バプテスト連合では第8回目となる信徒セミナーが札幌教会で行われました。わたしたちの教会からは、向田薫江さん、向田初穂さん、そしてわたしもグループリーダーとして参加しました。今回のテーマは「伝えるわたしの信仰」ということで、これまでの自分自身の歩みを振り返りました。家族のこと、仕事のこと、病気のこと、教会のこと、信仰のこと、などなど。ふわふわっとした、教会で用いられるキーワードについても、思いを馳せてみました。自分はこんな風に理解しているんだけど、と小さな声で始まりつつ、お互いにその思いを理解し合おうとする試みはそれだけでグッと距離を縮めてくれます。自分史、皆さんもまとめてみると、言葉にできない思いが驚くほどあることに気がつくでしょう。そして何を喜んでいるのか、それを言葉にするときに真の伝道が始まるのだと思います。

そして同日程で、連盟宣教部主催で「伴走ひろば」が仙台・南光台教会にて行われました。伴走とは、その人自身のスピードに合わせて歩いたり走ったり、時には立ち止まったりしながら、目標に向かって歩みを進めて行くことです。若者たちに限らず、教会におられる様々な人たちと歩みを合わせて行く、教会の速度と言ってもいいでしょう。そんな速度感を分かち合おうと全国から集まってお互いを励まし合おうとしています。小さな動きですが、この働きを通してもその教会での伝道が始まるのだと信じています。

 

 伝道は語るばかりではありません。一緒に聞くこと、じっと見つめること、時に一緒に佇みながら泣いたり笑ったりして時間や空間を共有し、影響し合いながら互いのペースで歩んで行くことです。信仰生活は影響し合うことです。そして自己絶対化からの解放です。間違っているかもしれない自分と歩みを合わせてくれる他者との出会い、そしてこんな自分をひっくるめて愛したもう、主イエスとの出会いです。そんな「新しい人」を目指して共に歩みましょう。

「メサイアを歌えば」

松坂克世

「主に頼んで救ってもらうがよい。

主が愛しておられるなら

助けてくださるだろう。」

(詩編22章9節)

 

 昨年8月から練習してきたメサイア・オラトリオのコンサートもいよいよ今日、本番を迎えます。昨年よりも3曲増え、全部で7曲の合唱曲を歌います。昨年よりも少しメンバーが減りましたが、少なくても良く響いていると思います。個人それぞれの練習もそうですが、指導してくださった工藤さんや伴奏としてメンバーにも加わってくださった山中さんの力でもあると思います。そして何より、主をほめたたえる信仰の歌を歌うことができること、そこにクリスチャン・クワイヤーの意味があります。ただの発表会ではなく、主の御名があがめられるために用いられたいと願います。

 

 今回新しく練習してきた28番はこの詩編の言葉が基になっています。中田羽後先生は「彼の神は助くべし」と訳しています。「彼の神は助くべし/これを見なばいま手をのべ」と。ここは主イエスの十字架上の場面で引用される大切な詩編です。ドロローサ、悲しみの道と言われる道を弱々しい足取りで一歩ずつ歩むイエスに、生活の音の中に多くの罵声、怒号としてこの言葉を浴びせられます。そんな物語の一場面を、み言葉を頼りに、切り取りながら、メロディーに乗せて歌うのです。誰が歌っているのか、誰に歌っているのかをよくイメージして歌いなさい、とよく指導されました。天使の声、地の底からの呻き、人びとの哀しみ、それでも賛美を与えられた信仰の歌声・・・。わたしのようなものがメサイアを歌うにふさわしいとは思いません。しかし、この歌を通して神の栄光があらわされるならば、そのために用いられるのならば、これ以上の幸いはありません。宗教改革500年の記念の年を刻む、今日も主の御名が大きくされますように。    

「愛の幕の内弁当」

松坂克世

というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。

(ローマの信徒への手紙12章4〜5節)

 

 先週は、連合教役者会の働きの一つ(無牧師教会支援)としてリビングホープバプテスト教会の礼拝に行って来ました。礼拝メッセージと主の晩餐式、午後からは「教会のビジョンを語る会」にアドバイザーとして参加しました。お昼は焼きそばでした。初めはホットプレートでみんなの分を焼こうとしましたが、ブレーカーが落ちてしまい、フライパンで二回に分けて焼いていました。そんなに量はありませんでしたが、みんなで分かち合って食べる豊かさを体現しておられ、敬服致しました。東光では、食事担当者が不在のため、お弁当を頼んだと聞いています。食べたいものを食べるのも、たまにはいいかもしれませんね。お互いの希望をも分かち合う、そんな教会になりたいと願います。

 

 さて、幕の内弁当というものがあります。わたしも大好きなお弁当です。おかずがたくさん入って、どれから食べようか迷ってしまうほどです。どうして幕の内弁当という名前になったのか調べてみると、諸説あるそうですが面白いことがわかりました。幕の内というからにはお相撲に関係があるのかなあと思っていたら、芝居などでの「幕間」(幕の内)に食べる弁当、という意味だそうです。でも、本当に多種多様なおかずを見ると、それぞれは本当に手が込んだものであることがわかります。煮物、焼き物、揚げ物、漬物など、小さなおかずがたくさん入っている様子は、教会のようでもあると思いました。どうでもいいものは一つもありません。それぞれは大きくないかもしれませんが、手をかけたおいしいものが集められています。そしてそれらみんなで一つの「幕の内弁当」を作っています。教会はキリストの名によって集められ、一人ひとりが仕え合い、祈り合う主にある幕の内弁当です。この愛の幕の内弁当を味わいつつ、喜んで共に歩んで行きましょう。    

「主のからだを目指して」

松坂克世

ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。

(ルカによる福音書12章31〜32節)

 

 先日の役員会では、クリスマスをどのように迎えようかという話し合いをすでに始めています。これでも遅いくらいかも知れませんが、皆さんも今年のクリスマスを誰とどのように過ごそうかと考えてみてください。今年は巡り合わせによって、24日が日曜日となっています。朝はクリスマス礼拝、祝会に引き続いて、夜には小さくてもクリスマスの礼拝をしようと考えています。

 

 現在の教会を見ると、高齢化の波はもれなくわたしたちにも届き、礼拝に来ることができない人たちが少なくありません。そんな人たちとささげる礼拝とはどのようなものか、またわたしたちが目指す伴なる礼拝とはどのようなものか、話し合うに早すぎることはありません。主イエスが語られた福音を、教会で、いろんな人たちと共に分かち合うことができるように、自分たちの賜物に応じて仕え合うように、祈りを合わせて行きましょう。

 

 教会は主イエス・キリストを頭とする、主のからだです。呼吸をし、栄養を摂り、話し合い、共に主の言葉に養われ、育まれて行きます。そのように、日々新しくさせられ、明日への希望を分かち合います。一人ひとりが結び合わされ、祈りによって連帯し、励まし合って行きます。その中心にはいつもみ言葉があります。

 

 先週、小樽教会の牧師就任式に出席しました。他の教会の牧師就任式に出席するといつも感じるのは、牧師も教会も新しい気持ちでお互いに仕え合うことにおいて、自らの襟を正されます。思いを新たに教会に仕えたい、そのような思いにさせられます。今回もそうでした。共に主の言葉に仕え合う、豊かなみ言葉の交わりを喜んで行きましょう。

「教会バイタルチェック」

松坂克世

御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。

(ヤコブの手紙1章22節)

 

 先週月曜日から、連盟日韓・在日連帯特別委員会の会議、そしてフィールドワーク、公演会に参加するため、神戸に行ってきました。震災後のボランティアにも結局行けず、人生初の神戸でした。まず、フィールドワークは飛田雄一(ひだ・ゆういち)さんという神戸学生青年センター館長であり、強制連行や戦争犠牲者の足跡を掘り起こす運動に長年取り組んでおられる方でした。神戸電鉄のトンネル工事のために、朝鮮半島から労働力として人夫を連行してきます。そこで事故のために亡くなった13名の朝鮮人労働者のために記念碑が建てられていました。また、南京町から少し南に「神戸港平和の碑」がひっそりと立っています。アジア・太平洋戦争時期、神戸港で中国人や朝鮮人、また連合軍捕虜が港湾整備のため過酷な労働を強いられていました。このことを刻んで2008年に建てられました。このような歴史を学ぶと、向かうべき将来が見えてきます。過去に学ばない者は未来に盲目になる、とは今から30年余り前、ドイツのワイツゼッカー大統領が「荒野の40年」として語った言葉です。

 

 そして夜はきむきがんさんによる一人芝居「在日バイタルチェック」を観ました。自身の在日コリアン三世として育ってきた背景と、自分のハルモニ(おばあさん)の生涯を織り交ぜて120分、笑いと涙の全力の公演もあっという間でした。

 

 キリストを信じる群れとしてのわたしたちは、自らを正し、慰め、整え、育み、養うのは神のみ言葉、つまり聖書以外にありません。そのみ言葉を分かち合い、学び合うのが教会です。しかし、その教会にも神はさまざまな人を招き、立てられています。お互いの声を聞き合いながら、主の教会を目指して歩んで行きましょう。    

「フーテンのちび」

松坂克世

人々はもうしばらく滞在するように願ったが、パウロはそれを断り、「神の御心ならば、また戻ってきます」と言って別れを告げ、エフェソから船出した。

(使徒言行録18章20〜21節)

 

 今年度も上半期が終わり、いよいよ後半に入りました。伝道の秋を迎えています。み言葉を伝える喜びを共に味わって行きましょう。と言っても、いっぺんに冬が来たみたいですね。体調が守られますように。

 

 さて、今年の後半はどのように過ごしましょうか。まず、小樽教会のエイカーズ愛牧師就任式(10/9)を皮切りに、残念ながら私たちの教会は欠席ですが、福岡・西南学院教会で日本バプテスト女性連合の総会が行われます(10/12〜13)。そして今月末には、ほぼ一年間練習を重ねてきたメサイア・クリスチャン・クワイヤーのコンサートが、宗教改革500年を刻むルーテル教会で行われます(10/29)。その他、合間に諸会議やリビングホープバプテスト教会への宣教支援もすでに入っています。なかなかスケジュール的に密になっています。「主が喜ばれるもの」を準備する、この一点において結ばれ、その目標に向かっているのは確かです。

 

 何度も言うようですが、先週行った「渡邊義孝教育担当牧師引退感謝礼拝」も主のものです。主人公は神さまです。神さまに感謝を献げ、そして伴なるイエスさまを信じて歩むのです。そしてこの機会をとらえて、教会が新しい歩みを始めて行くのです。足りないものばかりかもしれません。人もお金も。それでも献げようとするのが信仰です。

 

 わたしは「寅さん」が大好きです。意地っ張りで、涙もろくて、おせっかいで、人のために何とかしようと工夫する。時に周りの人たちは振り回されていい迷惑を被ります。でも、そんな味のある人生がわたしたちの心をくすぐるのです。真面目に生きようとすればするほど空回りする。迷惑をかけながら生きることを肯定してくれる寅さんの背中に、えも言われぬ温かさと安心感を見るのです。そんな味のある人生を送りませんか。ちょっとくらい損をしても、人が喜んでくれる人生を。共に。    

「たとえ嵐の中でも」

松坂克世

さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。

(マルコによる福音書6章30節)

 

 シルバーウィークと呼ばれる秋の連休も最終日を迎えています。先週は台風の影響で、全道の集いは中止となり、八戸教会の松坂有佳子牧師就任按手式も2時間遅れで始めて、レセプションは取りやめとなりました。そして急きょプログラムを変更し、就任式の中では「招聘のことば」と「就任のことば」が省略される事態となりました。でもそのおかげで記憶に残る式となったと多くの方が言われていました。いずれにせよ全てが主によって導かれたことを感謝いたします。いろいろあってその後、有佳子さんが旭川に戻ることになり、祈祷会は交替して行いました。

 

 皆さんの一週間はいかがでしたか。過ごしてきた一週間の歩みを振り返りつつ、主のみ前に重荷を下ろし、み言葉によって新しい力を受け、励まされてまた新しい一週間を過ごしてゆく、その中心にあるのが礼拝です。み言葉によって赦しと贖いが宣言され、み言葉によって疲れた心と体が快復され、み言葉によって交わりが豊かに導かれる。そんな経験をわたしたちは毎週積み重ねています。

 

 今日はいよいよ渡邊義孝教育担当牧師の引退感謝礼拝、感謝会を迎えました。渡邊牧師のこれまでの牧師としての働きに感謝する礼拝、感謝を表す会です。これが最後ではありませんが、一つの区切りを迎えたわたしたちの新しい未来への第一歩です。不思議なことに、あまりざわついていません。それはきっと人間の計画ではなく、神さまの業に信頼しているからでしょう。たとえ嵐の中でも、波と風さえも従うお方にわたしたちも信じ従って行きたいと願います。    

「どこを切っても」

松坂克世

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない。

(ヨハネによる福音書14章6節)

 

 今日から始まる予定だった「全道の集い2017」は台風接近のため、残念ながら中止となりました。このために連合壮年会は2年という時間をかけて準備をしてきたにもかかわらず、参加者の交通の安全を考えて、涙を飲んでその決断をしたというのは想像に難くありません。八戸での就任式にも無事に行けるかどうか分かりません。帰ってくることができるように、ぜひお祈りに覚えていただければと思います。

 

 さて、いよいよ来週の日曜日は渡邊義孝教育担当牧師の引退感謝礼拝、感謝会を行います。現在のところ、この教会で牧師在任19年間という期間は最長記録です。牧師を辞めるという決断を導かれたのも、主であることを信じて、新しい教会をイメージしながらこれからも担い合って行きたいと願います。

 

 今年は連盟結成70周年を迎えました。11月の総会ではそのセレモニーがなされるようです。そして来年からは「協力伝道会議」を各地で行い、これまでの教会を振り返りながら、次の時代の教会を目指すために、話し合いを重ねて行きます。先日、日本バプテスト同盟根室キリスト教会の高橋和則牧師が根室伝道開始130年記念誌を送ってくださいました。1888年9月16日、根室バプテスマ教会(ママ)が設立されました。その前、2年間をその準備期間に充てています。日本人教役者として初めて赴任したのが川勝鉄弥牧師でした。わたしたちの教会より100年近い先輩ですが、かの地でコツコツと伝道されていった祈りと思いに負けないくらいに、わたしたちも主イエスの名前を拡げてゆきたいと願います。

 

 このわたしたちのどこを切ってもイエスさまが出てくるような、そんな教会を目指して歩みましょう。イエスさまが教会の頭であり、動機であり、すべての主なのですから。    

「いくつになっても」

松坂克世

わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです。

(フィリピの信徒への手紙2章30節)

 

 今月末、わたしたちの教会に19年間、教育担当牧師として仕えて来られた渡邊義孝牧師が引退します。7月中旬に行われた臨時総会で承認され、教会はその働きを感謝して礼拝と感謝会を行おうと準備をしています。教会が招聘した牧師が引退をする。この教会にとっても初めてのことです。もちろん、渡邊牧師にとっても。教会が決断をして招いた、それと同じ責任感で辞任・引退を決断しました。このことは個人的なものではなく、あくまで教会の決断の中で起こったことです。引退感謝礼拝も、できるだけ伝道集会のような形で行おうとハガキなどでご案内しています。教会の事柄として、連合や連盟の中でも親しい方がたにも連絡をしています。思いと祈りが重なってゆく、そんなひと時となればうれしいですね。

 

 さて、来週は敬老の日を迎えます。この地域では75歳以上の市民の方がたにお祝いがなされます。長く生きると、それだけ苦労も多いでしょうが、神さまの祝福の出来事もそれだけ目にすることも多くあるでしょう。今日の登場人物、エパフロディトも高齢であったと言われています。様々な奉仕を担い、また大きな病気もしながら、なおパウロと人びとに仕えてきたと語られています。長く生きるということは、それだけ命の豊かな交わりにあずかるということでもあります。

 

 齢を重ねるということは、体や心の衰えを感じたり、大切な仲間たちの死を多く刻むことでもあります。しかし、若い頃にはできなかったことができるようになったり、さらに新しく生きるための先輩として教会はその後ろ姿に学んでいます。「終活」という言葉があります。人生の締めくくりを考えたり、準備したりすることです。そのために教会が道を示すことも教会に与えられた大きな賜物かもしれません。エパフロディトの人生に学びながら、いくつになっても主に従う証しを立てて行きましょう。    

「祈りは心太」

松坂克世

兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、”霊”が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください、

(ローマの信徒への手紙15章30節)

 

 9月を迎えました。夏はいっぺんに去ったかと思えば、名残惜しいのかまだ居座っているような、不思議な季節を迎えています。朝晩の冷え込みと昼間のお日様の頑張りによって、寒暖の差が一年で一番激しい時期かもしれません。体調が守られますようにと祈ります。

 

 さて、先週はHYP委員会で夏のプログラムを、また牧師セミナーではこれまでの北海道の宣教、そしてそこから自らの教会の宣教というものを客観的に捉え直し、反省と評価をしました。自らを省みるということは、次の自分へ向かって大切な作業です。今月末には渡邊教育担当牧師のこれまでの働きに感謝して、引退感謝礼拝と感謝会を持とうとしています。内容について熟慮しつつ、でも今回のことで一番大切なのは、このことを通して教会が新しくなるということでしょう。教会とは何であるのかを考えて行きましょう。答えはすぐには出ないでしょう。いや、答えを求めるのではなく、一緒に考えて行く共同体として歩んで行きたいと願います。効率や結果を求められるような世の中にあって、そのような福音とはかけ離れたものに固執するのではなく、キリストの福音を何とか分かち合って行きたいと願います。

 

 パウロはローマの教会に宛てた手紙の中で、ローマに訪問したいことを知らせながら、わたしと一緒に神に熱心に祈ってくださいと伝えました。祈りは一人でもできることですが、分かち合う祈りもあります。祈り、祈られる豊かな関係の中にわたしたちの教会もあります。そしてわたしたちの教会の中にも、収縮するような、送り出しつつ引き受けていくような関係があります。そんな呼吸のような祈りをわたしと一緒に、主の名によってしてくれとパウロはローマの教会に願っています。確かな祈りの交わりを、わたしたちも一緒に形作って行きましょう。

「次はあなただ」

松坂克世

主はこう言われる。

イスラエルの三つの罪、四つの罪のゆえに

わたしは決して赦さない。

彼らが正しい者を金で

貧しい者を靴一足の値で売ったからだ。

(アモス書2章6節)

 

 平和月間の最後の日曜日を迎えました。今日は平和宣言(平和に関する信仰的宣言)の全文を交読します。十戒をもとにしたこの宣言文は、2001年9月に起こったアメリカ同時多発テロ、そしてその報復が声高に述べられていた時代を背景としています。その只中で作成され、推敲され、提案され、決議したのです。主によって解放され、生かされたわたしたちは殺さない、という断言は、もはや血で血を洗う報復を断ち切ろうとしたものでもあります。

 

 先の8月15日、この旭川でも平和祈祷会が行われました。講師は宋富子(ソン・プジャ)さんという在日コリアンの方で、その人生の中に起こったことを涙とともに証しされ、正しい歴史を共に学ぼうと「アリラン文化センター」樹立と会員へ呼びかけられました。しかし今回のような在日の証言を、いったいいつまでわたしたちは聞かなければならないのでしょうか。わたしたちの手で日韓の歴史を正しく認識し、共に歩むべきパートナーとして見出すならば、もはや聞くに堪えない証言です。韓国だけではなく、アジア諸国に対しても同様に、加害の歴史を伝承しなければ、これからの社会を結んで行く力を得ることはできないでしょう。

 

 預言者アモスは、ダマスコから始めて、ガザ、ティルス、エドム、アンモン、モアブの罪を告発して行きます。そばで聞いていたユダとイスラエルは、まさかわたしにまで火の粉は降りかからないだろうとタカをくくっていました。しかし、ユダ、最後にイスラエルにまでその罪を明らかにします。それまで歩んできた中に、主は不正を暴き、抑圧を解消するため様々な罪を告発したのです。何をしたのか。それを明らかにしないところに平和はありません。わたしたちは平和を祈り、求めます。    

「すべては神の栄光のために」

松坂克世

イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。            (ヨハネによる福音書11章39節)

 

 召天者記念礼拝を迎えました。わたしたちは毎年、この8月にこの記念礼拝を大切に行っています。わたしたちより先に主のみもとに召された方がたの名前を呼び、覚えています。中には一度もお会いしたことのない方もおられます。また今後、時間を経て誰も知らない時が来るでしょう。しかしわたしたちの希望は人間に覚えられることではなく、神さまに知られているということです。「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ3:20)。これが福音です。

 

 マルタとマリアの兄弟であるラザロは病のために亡くなりました。どんな病であったのかは書いてありませんが、重い皮膚病とも言われています。いずれにせよ、病というのは当時、罪の結果であると考えられていました。長く病めば病むほど、社会から隔離され、関係は引き裂かれ、遠くに追いやられていました。ベタニヤ(11:1)とはそんな町であったのかもしれません。そこにイエスさまは滞在されていました。姉妹たちの問いかけに、イエスさまはこう答えておられます、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」(11:4)と。

 

 ラザロは何のために起こされたのかといえば、神の栄光のためであると主イエスは言われたのです。ラザロの墓の前でマルタは「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言いました。四日も経てばその肉体は腐り、もはや復活どころの騒ぎではない、もうダメです、と言っているようです。しかし誰もがもうダメだと思ったそのラザロを主イエスは新しいのちに起こされたのです。それは神の栄光のため、でした。死も復活も、すべては神の栄光のために。もちろん、その中にあるすべてのことをも。与えられた命で主の栄光をあらわして行きましょう。

「メイクピース」

松坂克世

わたしは言う

「わたしの生きる力は絶えた

ただ主を待ち望もう」と。

(哀歌3章18節)

 

 『憲法を獲得する人びと』という本があります。著者の田中伸尚さんはノンフィクションライターとして旭川にも何度か来られ、講演もしてくださっています。さまざまな人物に取材を重ね、それらは日本国憲法を獲得する歩みを貫かれているということを、その生涯を通して明らかにしています。憲法はそこにあるから憲法ではなく、憲法の条文を政府に理解させ、不断の努力によってその理念を追求してゆくこと、それが憲法を獲得することであり、そのことが肝心なのです。

 

 平和や正義というものも、そうでしょう。獲得するものであると信じています。ただ待っていても来ないし、与えられるものでもありません。自らがそれらを具体的に考え行動してゆくこと、それがわたしたちに与えられた平和を実現する者としての歩みでしょう。

哀歌とは、悲劇ではなく、また単に人間の愚かさを嘆いているわけでもありません。エルサレム神殿の崩落は神の激しい怒りの現れと考え、それはユダヤ人たちにとって精神的な危機となり、少なくとも二度の強制連行によって民が引き裂かれ、残された少数の政治的指導者たちの内部抗争によって都は崩壊しました。哀歌にはこのような歴史的破局の「意味」への問いかけが満ちています。「なにゆえ」で始まるこの歌は、人間の哀しさを神に訴えているものであると言っても過言ではないでしょう。その「意味」への問いかけは、自らにも向けられるものであり、今ここにある命たちへの問いかけでもあることをわたしたちに示しているのです。

 

 平和はどこへ消えたのでしょうか?この社会に対してわたしたちは問いかけつつ、平和を実現する歩みへとわたしたちを誘う主の言葉に今日も新しくさせられましょう。

「ゲラピース」

松坂克世

これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。

(ヨハネによる福音書16章33節)

 

 今年も暑い8月が巡ってきました。先週は少年少女隣人に出会う旅の旭川の旅が終わり、韓国と沖縄の旅がスタートしました。今週は北九州の旅が始まります。それぞれの旅でよき出会いと学びが重ねられるように祈っています。

 

 この8月を迎える度に、様々なことを思い返します。それはやはりアジア・太平洋戦争(大東亜戦争)のことです。つい70数年前、わたしたちは間違いを犯し、人間が人間でなくなる経験をしました。殺し合い、憎しみ合い、血で血を洗う残虐な歴史を築いてしまったのです。欲望は更に領土問題にまで広がり、朝鮮半島だけでなく太平洋地域各地で侵略をしました。それが正当化されるのが戦争というものでしょう。

 

 今日は8月6日。72年前の今日、朝8時15分に原子爆弾が広島の町に投下されました。多くの死傷者が出ました。その傷は今も消えずに人びとの体と心に残っています。一体どこまで行けば癒されるのか。しかしながら、日本という国は政策として原子力発電を推進しています。福島第一原子力発電所のあれだけの事故が起こってもなお。そのことを考えないとしたら、いや考えることができないのだとすれば、戦後はまだやって来てもないのかもしれません。きちんとその課題に向き合い、今後どうするのかを確立してゆくのが平和を祈ることでしょう。

 

 主イエスは弟子たちに向かって語るのは「あなたがたがわたしによって平和を得るため」であると言います。平和を得る、つまり平和をゲットするために主イエスは言葉を語るのだと言われます。ゲット、つまり積極的な意味でそれを捉えること、そしてそのために祈ること、行動すること、分かち合うこと、あらゆることを通してわたしたちはみことばの通りに平和をゲットするのです。みことばに捉えられる、平和を獲得する歩みを共に導かれて行きましょう。

「どこが住家か」

渡邊義孝

「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです」。

(コリント信徒への手紙1:5章1節)

 

 昔、奉公人は「夏の休みはお盆」でしたので、親元に帰る楽しみの日でした。お盆は先祖の霊に対し尊敬と感謝を表す大切な時でした。

 

 最近、我が家の近隣でも空き家が多くなりなじみの家が少なくなりつつあります。それに共なってでしょうか「墓じまい」と云ってお墓が取り壊されているのも今までに見られなかった事です。

 

 子供の少ないのも一因で、また残された子供にしてもお荷物となっているようです。墓石屋さんの話では、亡き方の霊を慰め、供養を営む事で亡き方の霊も安らぎ、かつ家の繁栄をももたらす。と云うのが日本人の考え方なのだそうです。

 

 ある人が自分の家の墓を自分で壊している人がいたそうです。いま幼い娘一人娘に将来負担をかけたくない、からだそうです。誰も世話しない無縁墓も増えています。墓を守る事は大事な務めでしたが、それが出来なくなってきたのを認めるしかなさそうです。旧約のアブラハムも、親の地を離れ知らない土地に行き、カナンに来た時、神がこの地を子孫に与えるとの声を聴きます。しかし彼はそこに家を建てず天幕生活をしました。子供たちも家を建てません。何故だったのでしょうか。

 

 神が設計者であり、しっかりした土台の都を待望していたからでした。さらに素晴らしい故郷、天の故郷を熱望していたからでしょう。その子供たちも同じようにしました。孫のヤコブも死期が来たとき息子に先祖の墓に納めてくれ、共に眠りにつき「天に迎えられる日を待つ」と云いました。私たち信仰者にとって墓とは天の故郷に迎えられる時を待ち望みつつ先祖たちと共に眠りについていると云う印なのです    

「この山に登ろう」

松坂克世

さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったかと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

(ルカによる福音書10章36〜37節)

 

 いよいよ今週木曜日から隣人に出会う旅旭川の旅が始まります。来月にはその他の三つの旅(沖縄、韓国、北九州)も始まります。一足先に旭川の旅の幕が切って落とされます。これまで半年以上に亘って準備してきました。テーマについて、参加申し込みのこと、事前学習資料、第1課を終えて戻って来た感想文、受け入れ態勢(旭川教会との準備)、布団や弁当の手配、名札作成、各講師との打ち合わせなどなど。一週間を切ってからも東奔西走しています。でも、何より元気に来て、元気に帰ることを一番に祈っています。皆さんも是非お祈りください。

 

 そのような中、今日は大切な臨時総会を迎えます。この教会のターニングポイントとなるでしょう。そしてあらゆることを捉え直すことが必要になります。コペルニクス的転回が必要です。それまで地球が中心であり、太陽その他全てのものが地球を回っていると考えられていました。しかしコペルニクスは、太陽を中心に地球その他が回っている説を唱えたのです。現在では常識的なこの考え方も、ある時点においては全てのものをひっくり返すものであったのです。そんな「ひっくり返し」、視座の変更がこの教会にも必要となるでしょう。

 

 ある律法の専門家とのやり取りの中に語られた主イエスのたとえ話は、その「ひっくり返し」そのものでした。「わたしの隣人とは誰ですか」と問うた彼に、「誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と問われたのです。隣人とは単にそこにいる人のことではなく、人生がひっくり返ってしまうような出会いを経験することでしょう。旅に参加した少年少女たち、そして少年少女たちを通して教会がそんな出会いを経験して行くのです。そのための労は惜しみません。そして全てのことは祈りによって成し得るものでしょう。感謝と共に。

「夜明けの福音」

松坂克世

既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。

(ヨハネによる福音書21章4節)

 

 海の日が来る度に思い出します。2005年のこの日、わたしの牧師就任式をこの教会が行ってくださいました。教会がわたしというひとりの人間を牧師として立て、さらにそのことを周りの教会たちと一緒に喜ぼうと内外に知らせ、就任の祈りの言葉を編み、みんなで祝福してくださいました。新しい牧師と新しい歩みを始めたのです。それから12年が経ちました。様々なことをお互いに経験し、これからどのように立ち続けていくのか、教会はなお祈り求めています。

 

 さらに、今回の一件から調べてみると、渡邊義孝牧師もこの海の日(1998年7月20日)に招聘されています。旭川に海はありませんが、わたしたちの教会ではこの海の日に新しい歩みをそれぞれ始めていることがわかります。極めて感慨深い日ではないでしょうか。

 

 今年の海の日には、帯広バプテスト・キリスト教会において、川内裕子牧師・川内活也牧師就任式が行われます。今年の三月末にルーテル教会での牧師就任式に出席した折にも感じましたが、他の教会の牧師就任式に出席すると、我が身を振り返り、襟を正され、またがんばっていこうと決意を新たにさせられます。12年も経つと新しさはなかなか感じることができないかもしれませんが、でも日々新たにされてお互いに主の業に励もうとの祈りを厚くさせられます。

 

 教会はその牧師と一緒に喜び、苦労し、汗と涙を流し、教会と成ってゆこうとするのです。そんな一歩を省みるこの時、わたしの献身の動機を与えられた聖書の箇所を分かち合いたいと思いました。夜が明けるころ、ガリラヤの海辺に立っておられた主イエス。弟子たちは誰もそれがイエスだと分かりませんでした。でも、大漁を経験し、朝食へ招かれると、それがイエスだと分かったのです。懐かしい声、懐かしい顔。でもそれは新しい夜明けの始まりでした。復活の主イエスと共なる歩みが彼らのすべての動機となったのです。新しい命に生かされること、それが福音のはじまりでした。    

「福音の金太郎飴」

松坂克世

ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

(マルコによる福音書1章14〜15節)

 

 その晩も蒸し暑い夜でした。でもそれ以上に熱かったのは、これから始まる教会への祈りでした。どんな形になるのか、誰が招かれているのか、何も分かりませんでした。それでもひとつところに集まって、始まったのが今から34年前の夕礼拝でした。それが私たちの教会のルーツです。将来への展望など、何ひとつ見えていませんでしたが、主にある希望だけがわたしたちの心を動かしています。今はどうでしょうか。あの時の熱い祈りと同じ祈りを神に献げているでしょうか。

 

 今日皆さんと一緒に迎えているこの伝道開始記念礼拝は、私たちなりの協力伝道週間礼拝と言っても良いでしょう。連合や連盟の熱い祈りによって始まった教会を喜んで献げる礼拝です。自分たちの経験や業績などを誇るのではありません。むしろこの教会にも限界があり、いつかは朽ち果てることを自覚しながらも、なお働かれる神の業に一切を感謝し、委ねて行くために、今あるこの交わりを喜び、主を賛美するのです。

 

 主イエスはガリラヤでその伝道を始めています。ガリラヤとは「周辺」という意味で、中心であるエルサレムに呼応する象徴的な地方の名です。そこで主イエスは神の福音を宣べ伝えたのです。そしてその地方にいた漁師たちを弟子として招かれました。シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネです。いずれも網を捨て、父や雇い人たちを舟に残して、イエスの後についていったのです。

 

 主イエスがどんな人なのか、福音とは何であるのか、全てが理解できたから従ったのではないということは明白です。「人間を漁る」という言葉に期待と希望に胸を膨らませたのです。伝道はそんなことから始まりました。そして多くの地方を周りながら、人々とつながり、祈り、讃美していったのです。そのどこを切っても福音しか出てきませんでした。そんな歩みをわたしたちもごいっしょに!

「ただいま」

松坂有佳子

見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。               (詩編133:1)

 

 八戸教会に赴任して3ヶ月。でも自分ではとても長く感じていて、少なくとも1年ぶりくらいに里帰りしたような気持ちです。必死にやっている…というところです(笑)。いつもお祈りありがとうございます。

 

 上記のみ言葉は、八戸教会の年間主題聖句です。「ごいっしょに」という主題を掲げて歩んでいます。毎月第一主日には、この箇所や関連する箇所から宣教しています。この詩編は、「ヒネマトーブ」という巡礼歌として今も大切に歌われているものです。家族や同胞が別れ別れになり、共に暮らすことができない中で、心の故郷を、求め慕う歌でしょう。「兄弟が共に座す」という当たり前のことが、引き裂かれ、分断してしまっている現実が重たくのしかかっているからこそ、なのでしょう。

 

 八戸教会では、共に礼拝する喜び、共に祈る喜びを味わうということと同時に共に礼拝することができない方々を覚え、共に座すことを祈り求め歩んでいこうとしています。新しい活動をするということよりも、交わりの回復を丁寧に目指しています。高齢になり、自力で礼拝に来ることができなくなって、何年も経ってしまっている方などを、教会の方といっしょに訪問するようにしています。訪問する度に表情が明るくなっていかれるのが、訪問する側の人たちを勇気づけています。

 

 また「共に座す兄弟」として旭川東光教会のことも祈りに覚えて歩んでいます。今日は講壇交換という形で「共に座す」ことを具体化のひとつとして与えられて、心から感謝いたします。

「このパンをあなたと」

松坂克世

すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。

(マルコによる福音書6章42〜43節)

 

 最近は寝ても覚めても、隣人に出会う旅旭川の旅のことで頭がいっぱいです。明日からの会議でも最終打ち合わせを行う予定です。詳細なプログラムを綿密に準備することそのものが旅の醍醐味でもあります。これまでたくさん下見にも行きました。旅を通してすでにわたしたちにも出会いが与えられ、拡げられています。日常が大きくなってゆく、そんな経験をしています。まずはそんな準備を重ねています。

 

 今回の旅のテーマは「アイヌモシリを味わう〜エイペニサー?」としました。この「エイペニサー?」とは日常の挨拶、「こんにちは」に当たるアイヌ語で、その意味は「メシ食ったか?」というものです。お腹が空いていれば自分が持っているものを分かち合うのがアイヌの人たちの挨拶であることを聞いた時、素敵な文化であると思いました。この挨拶に触発され、初日の夕食は「たらいうどん」にしたり、旭川教会主日礼拝後の昼食は焼肉を行うことなど、分かち合うことを大切にします。しかし大皿盛りには一つだけ難点があります。それは自分がどれくらい食べたか分からないことです。でも満腹になるわけです。そしてたぶん、隣の人も。お互いがお互いの必要を満たすことができる、これが主の食卓です。

 

 特にこのマルコによる福音書が伝える五千人に食べ物を与えるという場面では、人々が百人、五十人ずつまとまって座った、とあります。おそらく輪になって座ったのでしょう。するとお互いの顔が見えてきました。そしてそれぞれに必要な分のパンと魚を分け与えられたのでした。お互いの声を聞き、お互いのために祈り、そして共に遣わされます。十二の籠にいっぱいになったパンを抱えて出かけた先でイエスさまの出来事を分かち合い、必要を満たしていったのです。確かなパンを大切なあの人と分かち合う。イエスさまの祝福の祈りはそんな力がありました。わたしたちもここから、イエスさまと、そして仲間たちと共に遣わされましょう。

「こころとかされて」

松坂克世

そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

(マタイによる福音書15章28節)

 

 今日は花の日。こどもの日を迎えました。この日は一斉に芽吹く花のように子どもたちが成長するのを感謝し、祝福を祈る日です。私たちの教会では、以前は11月に行っていた子ども祝福礼拝を、数年前からこの日に合わせて行っているものです。子どもが育つ時、スポンジのようにその心の中にあらゆるものを蓄えて行きます。それはいいものも悪いものも。どちらかだけでは心が育ちません。それを判断してゆく力やそれを乗り越える力を少しずつ養ってゆくのが大人になることなのかもしれません。

 

 ある時、イエスさまは北へ北へと歩みを進めました。まるで誰かに会いに急ぐように。するとそこへ、ある女性がやって来ました。彼女には娘がおり、その子が病気で苦しんでいました。彼女はその子のために、イエスさまに会いに来たのです。しかも、叫びながらイエスさまの後をずっとついて行きました。それは「憐れんでください。主よ、憐れんでください」という叫びでした。心の底からのその叫びは、同行する弟子たちにとっては邪魔でしかありませんでした。イエスさまも「イスラエルの家の失われた羊たちのために、わたしは遣わされているのだ」とキッパリと答えます。それでも彼女は食い下がり、助けてくださいと初めてその心の内を語り始めるのです。パタッと心を閉じてしまっていたイエスさまの心に、彼女の祈りが届きます、「願ってもないところから主の出来事は起こされます。あなたとわたし、ここでこんな風に出会ってしまい、もう助けてと叫ぶほかありません。主よ、憐れんでください」と。

 

 彼女の娘の病気はいやされたと書いてあります。確かにいやされたのでしょう。でもこの物語でもっと大きな出来事は、一人の女性が自分の心に正直に叫び、主の心に届き、主の心が溶かされていったことではないでしょうか。人は人の言葉に傷つき、またいやされてゆくのです。豊かな交わりに生きるために、お互いの心を溶かすような言葉を用いて行きましょう。そして、それはただ主のために。

「喜んで遣わされる」

松坂克世

そこへ、アレクサンドロとルフォスの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。

(マルコによる福音書15章21節)

 

 あっという間に、今年も前半最後の月を迎えてしまいました。年々、一年が過ぎるのが早いなあと感じています。充実しているからでしょうか。先週はブライダルのために静岡・浜松へ行ってきました。自分で言うのも何ですが、とてもいい式だったと思います。本当に大切な、そして近しい人たちを招いての式でした。いつも言うことですが、この結婚式も礼拝であるということを開式の挨拶で伝えます。この式は二人のために行うものではなく、新しく夫婦となるこの二人と一緒に主のみ前に献げるものである、ということです。その二人は礼拝の中で、お互いに信頼し合い、愛し合い、神の定めに従って夫婦となる決断をします。欠けの多い人間同士が主によって結ばれて、一緒に生きようとする、そのことを喜んで遣わされます。

 

 イエスさまの十字架の場面で、様々な人々が用いられます。ゴルゴタへの向かう道での出来事でした。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)はここでシモンというキレネ人を用います。主イエスの十字架を担がせるために。素性はよく分からない人ですが、キレネとはアフリカ北部であり、そこが田舎なのか(この言葉は畑、つまり農作業から、とも訳せる言葉です)分かりませんが、とにかく聖書には名前を挙げられ、用いられています。主イエスの十字架を担いだ人としてこのシモンはここに出てきます。これまでのこともこれからのことも残念ながら聖書には書いてありません。でも、用いられたのは確かです。たまたまそこにいたのかもしれませんが、イエスさまの十字架に用いられるとはこういうことでしょう。思ってもみないところで、思ってもみないような仕方で、主はこの私を用いられるのです。用いられたいと願おうと願わざるとに関わらず。主のために、喜んで用いていただきましょう。    

「析出する二人へ」

松坂克世

神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」               (創世記1章26節)

 

 神さまの計画というのは人間をはるかに超えています。私たちがどれだけ頭を使って考えても、その出会いと出来事を起こされるのは神以外におられません。二人が出会い、結婚するということもまた、人知を超えた神の業です。全く違うところで生まれ、それぞれの家族とともに過ごしてきた二人が、一緒に暮らすということもまた奇跡のような出来事です。価値観など違って当然です。味付けも違って当然。味噌汁の味噌が何か、お雑煮の具やおにぎりの中身まで、全く違う文化が出会います。そして融合し、新しい文化となってゆくのです。何もかもが違う二人なので、衝突もあるでしょう。お互いに譲れない何かがあれば、そのことを乗り越えていかなければなりません。でもそうやって二人らしい家族となってゆくのです。

 

 こんなことを式辞で喋ろうかなと準備しています。お互いとの出会いのエピソードも織り交ぜながら。でもこうして書いてみると、教会もこの通りですよね。背景の違う人たちがガチンコで出会い、それらの異文化が出会うために、時に衝突が起こり、混乱し、感情がぶつかることもあります。しかし、それらを乗り越えてこそ、本当の教会とされてゆくのです。

 

 主イエスの教会、そして主イエスにある家族はお互いを見つめ合うのではなく、お互いに主を見上げつつ歩みを重ねて行きます。もう前に進めない、そう思うような時にこそ、主は力を与えてくださいます。

 

 「析出する」という言葉があります。それは時を重ねて結晶化するという意味です。結晶化するには長い時間が必要です。でもその時間をかけた関係でないとわからないことがあります。人間のそんな営みの中に主はいつも共におられます。安んじて、大いなる船出を楽しもうではないか!

「きみといっしょに」

松坂克世

アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。           

(創世記12章5節)

 

 先週、一つの会議と一つの集会に参加してきました。どちらもいわゆるボランティアと呼ばれる活動で、一銭にもならない働きです。でも地域には欠かせない大切なものです。一つは民生委員児童委員の市内全体の協議会大会、もう一つは地域食堂です。民児協は、このような活動が100年という長い間、地域の誰かの手によって続けられていることに感動を覚えます。この働きを実際に担うまでは、誰かがやっていることは知っていても、この仕事の尊さに目が行きませんでした。地域食堂では、集う人びとと一緒に調理をし、食べるだけですが、様々な人達が関わっています。市役所の子ども育成課の人たち、地域小学校のPの仲間たち、昨日は上富良野町で新規就農として研修している方も朝獲れのアスパラを持って来てくださいました。この働きも自分たちで参加費を払ってやっています。

 

 でもどちらもこの地域を作る働きには変わりありません。たまたまわたしもここに住み、ここで育ち合いたいと願って、様々な働きを担っています。これらがわたしの喜びであることは言うまでもありません。人生、お金にならないことの方が多くあるのです。

助け合って生きる。この地域もそのようにありたいと願います。そのために教会が用いられるならば、なんと幸いなことでしょうか。この時代、小さな命たちが本当に大切にされる社会であるようにと祈りを合わせたいと願います。教会はこの社会に福音を宣言し、その福音に共に生きて行こうと呼びかけるのですから。

 

 「ハランで加わった人々」とはどんな人たちだったのでしょうか。想像してみましょう。そして私たちもそんな人たちと共に、ここから約束の地を目指して行きたいと願います。

「いのちの記念日」

松坂克世

ラケルが最後の息を引き取ろうとするとき、その子をベン・オニ(わたしの苦しみの子)と名付けたが、父はこれをベニヤミン(幸いの子)と呼んだ。

(創世記35章18節)

 

 先週はお休みをいただいて、八戸バプテスト教会の主日礼拝に出席しました。ひと月ぶりに有佳子さんのメッセージを聞いて、懐かしく、また新しい気持ちになって帰ってくることができました。お祈りを心から感謝いたします。息子も楽しそうに、また元気に過ごしていました。体もひと回り大きくなったような気がしました。来月末には交換講壇としてメッセージをお互いの教会で行うことになっています。そのことも楽しみにしています。

 

 さて、今年も母の日を迎えました。この日はどういう日なのか、その起源を確認します。1905年、ひとりの女性が亡くなりました。その名はアン・ジャービス。アンには二人の子どもたちがいました。アンナとエルシノア。アンは生前から平和のために祈り活動する運動家でした。敵味方関係なく戦争によって負傷した者たちの衛生状態を改善しようと立ち上がっていました。それは、ジュリア・ウォード・ハウが戦争に夫や子どもたちを送らないようにと出した「母の日宣言」に大きな影響をもたらしました。いずれも命を守り、平和に生きる権利を勝ち取ろうとしたものです。アンが亡くなって2年後、教会で記念会が行われます。この母親の思いを分かち合おうと二人の子どもたちによって白いカーネーションが参列した人たちに配られたのが母の日の始まりです。

 

 母に感謝を、というよりは母の思いを受け取り、分かち合う命と平和の記念の日です。現在の国際情勢はいかがでしょうか。戦争があります。難民と呼ばれる人たちがいます。あらゆる攻撃に対する万全の体制が整っていると大国の大統領は言っています。対立はさらに深まっているようです。わたしたちの希望は、この母の日の起源をもう一度思い起こし、その意味を分かち合うことです。そのために教会は繰り返し、母の日の礼拝をするのです。命と平和の母の日を、今日も皆さんとご一緒に。

「周りが美しく見える時」

渡邊義孝

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。/主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。」(詩篇23編1~3節)

 

 5月に入り何処の家の庭にも早咲きの草花が可憐な美しさを誇って咲いています。童謡に「春の小川はさらさらゆくよ,岸のすみれやレンゲの花に」の歌が自然に口走っている自分を発見します。北国に住む私たちにとって一番春を感じる時だと思います。そして一面にびっしりと咲いている花びら一つ一つをよく見ると、今まで気が付かなかった違いが見えてきます。改めて「個」の存在に気が付くと共に創造主の生命力に溢れた存在に気がつかされます。

 

 私たちはなぜ新緑と色々な花を見るとこのような気持ちになるのでしょうか。今まで過ごしてきた冬の寒さ、厳しさを体験して春の来るのを心待ちしていたからであろうと思います。

 

 自分もこの23編に接したとき春の温かい太陽の元で眺める姿を映して楽しんでいるのを感じました。しかしこの詩篇の文面を本当に理解していませんでした。このように情緒的に解釈することが間違いではありませんが、出エジプトの荒野の40年の長きにわたり、主なる神の愛により、またその主なる神への信頼のゆえに、渇きの砂漠をさすらった日々、飢えにさらされ緑を求めた過去が思い出される。この憩いのみぎわに導かれた年月が想起されると共に今、そして未来に続く確かな信頼と支えになる。渦中にある時は主が共におられるとは感じられないがその苦しい時期を通過した今、共に居てくださった主を確信できる。この信仰が歌われていると云うのです。

 

「多聞の道を」

松坂克世

また、わたしはあなたの舌を上顎につかせ、ものが言えないようにする。こうして彼らを責める者としてのあなたの役割は終わる。まことに彼らは反逆の家だ。しかし、わたしが語りかけるとき、あなたの口を開く。そこであなたは彼らに言わねばならない。主なる神はこう言われる。聞き入れようとする者は聞き入れよ。拒もうとする者は拒むがよい。彼らは反逆の家だから。」

(エゼキエル書3章26〜27節)

 

 新年度の総会が無事に終わりました。提案された一つひとつの事柄が吟味され、それについて意見を交わし、決断しました。さあ、わたしたちは決断した者たちとして、あらゆるものを分かち合いつつ、祈りながら主のみ心を求めて行きましょう。昨日も北海道バプテスト連合の総会が行われました。わたしたちもこの連合を形作るひとつの教会として、みんなで力を合わせて伝道して行きましょう。

 

 繰り返し言いますが、伝道とは語るばかりではありません。向かい合うその人の言葉を聞いたり、その人の隣をその人のペースで歩いたり、その人の後ろから支えたりすること。それがキリストの道を伝えることです。語るのは一番最後に、必要なことだけを伝えればいいのです。

 

 預言者エゼキエルは、沈黙を与えられます。預言者としての務めは、言葉を語ることにあるのではありません。文字どおり、神の言葉を預かる者です。ですから誰より神の口から出る言葉を一つも漏らさずに聴くことにあります。

 

 わたしたちにも沈黙が必要なのかもしれません。それはわたしたち自身から出る言葉たちが邪魔になるからです。神の前に、ただ静かに過ごすうちに語るべき言葉は与えられます。大いに期待して、沈黙を与えられましょう。わたしたちは神の言葉に生き、導かれる神の民なのですから。    

「三度の愛」

松坂克世

三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存知です。わたしがあなたを愛していることを。あなたはよく知っておられます。」

(ヨハネによる福音書21章17節)

 

 イースターおめでとうございます。主はわたしたちのために新しい命に神によって起こされました。「よみがえる」という動詞は受動態です。直訳すれば、イエスは神によってよみがえらされた、という表現となります。違う表現をすれば、神はイエスをよみがえらせた、のです。この動詞の主語は神です。無から有を生み出す神は、イエスを新しい命によみがえらせたのです。そして、その出来事はわたしたちのために、すべてがなされました。神はご自分のためにイエスをよみがえらせたのでもなく、イエスは神のためによみがえらされたのでもないのです。主イエスの十字架と復活は、ただ弱く小さな人間のためにあります。

 

 復活の主イエスは夜明けに弟子たちに現れました。そしてペトロにこう問いかけたのです、「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上にわたしを愛しているか」と。でもペトロは、あなたを大切に思っているのはあなたがご存知なはずです、と答えます。この三度の問答の中に、復活の主イエスはペトロを愛し、弟子たちを愛し、そしてわたしたちを愛しておられることを伝えています。

 

 弱く小さな人間を復活の主は愛しておられる。わたしたちのためにすべてを与えたもう主は、わたしたちのためによみがえらされ、新しい命をも与えたもう。その命によりわたしたちは生かされていることを知る時、もはやこれ以上の愛はないと悟るのです。この主の愛に応えて、わたしたちも愛し合って行きましょう。    

「思い出の鍵さ」

松坂克世

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。

(ヨハネによる福音書20章19節)

 

 イースターおめでとうございます。これまで40日に亘ってレントを過ごしてきました。その40日というのは、イエスさまが公生涯と呼ばれる伝道活動を始める時に断食し祈られた日々のことです。あるいはイスラエルがエジプトを出発してから約束の地に入るまで40年かかりました。それらの40日、また40年を記念して私たちもこの朝に至るまでの40日を、主イエス・キリストの受難を覚えながら過ごしてきました。皆さんのこのレントはいかがでしたか?

 

 先週、受難週に入るという時に、私たちの愛する佐藤四郎さんの召天の知らせを聞きました。そして翌日から二日間にわたる葬儀を導かれました。そこでは、死に勝利するキリストの力を福音の言葉として語ることを与えられました。受難週に復活の福音を語ることはなかなか無い経験でしたが、なお私たちは死が終わりではないという福音を分かち合うことができました。

 

 さて、イースターの朝を迎えました。弟子たちにもにわかには信じられない出来事でした。おそらくいつもの場所に集まっていたところ、ユダヤ人たちの手は自分たちにも及ぶかもしれないとの思いは弟子たちを内向きにさせ、部屋に鍵をかけていました。それはきっと心にも鍵をかけていたということでしょう。誰にも知られたくない、との思いでいた場所で喜んだ弟子たちはやがて、すべてから解き放たれたところで新しい命を心から喜ぶことができるように、主イエスは声をかけるのです、「あなたがたに平和があるように」と。それは平和から遠く離れていた弟子たちに届く柔らかな声でした。その声と言葉に弟子たちは生きるのです。さあ、私たちも!主のご復活おめでとうございます。

「キリストばか」

松坂克世

神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。

(コリントの信徒への手紙一1章30節)

 

 新しい年度が始まりました。今朝はまず、教会学校の進級式を行ってから、新しい学びを新しい仲間たちと始めて行きましょう。教会学校は、信仰生活にとって大切なみ言葉の学びと分かち合いです。卒業はありません。いつまでも学び続けることが大切です。読めば読むほど新しい、主のみ言葉に今朝も聴きましょう。

 

 さて、先週行われた春の修養会では、連合の他のどんなプログラムよりも一つのみ言葉に集中し、分かち合い、学び合うといことをしてきました。その聖書箇所はルカによる福音書18章18〜30節、いわゆる「金持ちの議員」のお話です。議員とイエスさまとの対話の中に、様ざまな感情や厳しさなどを見出し、さらにイエスさまはなぜこのようなことを言われたのだろか、十戒の言葉との整合性は? 人間にはできないことも神にはできるという言葉の本当の意味は何だろうか? 等、引っかかったことを分かち合い、さらにそこから各グループで話し合うという三日間を過ごしました。高橋先生は、単なる講演ではなく若者たちと一緒に悩みたいとこのようなスタイルでの修養会を導いてくださいました。

 

 聖書をどう読むかということは、そのままその人の生き方そのものに現れてきます。何を福音として信じ、何を分かち合おうと教会に来ているのか、それを言葉にし、証しをしていくことがクリスチャンの務めです。

 

 明日、4月3日は日本バプテスト連盟結成記念日です。1947年のこの日、16の教会が集まって結成総会をし、連盟の歩みが始まりました。それから70年、わたしたちはお互いのことを覚えてこの日を迎えようとしています。遠くの教会、近くの教会を覚えて祈りましょう。わたしたちも覚えられていることを信じて、感謝しつつ。